壬生狼一家

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吉田胎内樹型 (富士山世界遺産構成資産) ~2018年3月17日(土)~

吉田胎内樹型
(富士山世界遺産構成資産)
~2018年3月17日(土)~ 

富士山世界遺産構成資産番号22の『吉田胎内樹型』
未だに訪問したことはなく、何度か北口本宮浅間神社から馬返まで歩いた際、『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』の方向を示した標識を目にはしてきた。
何となく存在している位置は把握していたのだが、今回は『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』を目指してみた。

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カーナビで所在地とされる住所:富士吉田市上吉田剣丸尾5590を入力して出掛けたのだが、『山梨県富士山科学研究所』あたりで到着したことになってしまった。
山梨県富士山科学研究所』 の中にでも、もしかしたら 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』 があるのかな何て思って車を進入させてしまったが、勿論そんな訳は無かった。

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多分、 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』を目指したものの、俺なんかと同様に 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』を見付けられずに退散せざるを得なくなった人は沢山いるんじゃないかと勝手に想像してしまう。
今回は運良く、かみさんとばあちゃんも一緒に 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』を目指していたのだが、車窓から『鳥居』が見えたとか、『胎内神社』って書いてあったのが見えたとかの情報をもたらしてくれたのでその情報を元に車を進めてみた。

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確かに何やら特異な『鳥居』が目に入ってきた。
えげつない角度の梯子(階段)が掛かっている。

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小学生2人、高齢者1名を含むので危険かなとも思いながらも進むこととした。

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梯子を登ると、一応 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』 への道標として標識が掲げられている。

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『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』 まで1,000歩とあるが、全くこの表記は距離感が読めない。
参拝者にとって優しい表記ではない。

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ざっと辺りを眺めてみるが、ほぼ踏み跡が残されておらず、どっちの方向に進むのか読めない。

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少し進むと、早速どちらに進むべきか分からなくなった。かみさんの『こっちじゃないの』の一言で一旦戻って進む方向を変えた。

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確かに標識はあるのだが、標識があるところから、次の標識が見えないし、多分、この道を辿って 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』を目指す人は極端に少ないものと思う。

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時間は15:30、日没までは2時間以上あることは多少の余裕を生むが、何せ踏み跡がここまで残っていないのは不安感が増す。

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向かって左側に谷が続くので、迷った際はこの谷に沿って戻れば何とかなりそうではある。


樹海の中を標識を頼って進む。結局15分ほどで 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』に到着できた。

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あとで調べてみたら直線距離ではたったの300~400mほどであったのだが、実際に樹海の起伏にとんだ中を歩くと倍くらい歩いていたかのように思えた。

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『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』 に到着したが、参拝者は我々以外には誰一人いないし、近くに参拝者がいるような感じすらなかった。

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樹形の入り口は柵で塞がれ中に入りことは出来ないのだが、中の様子は柵の外側からでも見ることが出来る。

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近くには小さな樹型も見られ木々の隙間からの木漏れ日はなんともいえない風景であった。

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数分の滞在で、今来た道を戻った。

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ちょっとした探検気分で子供たちも楽しかったようだ。
次回は『中の茶屋』から向かってみたいと思う。ちなみに『中の茶屋』からは1,000mほどの距離のようだ。

我々が辿った行程を進むのなら、車は『冨士北麓公園』に止めて、県道716号線の交差点まで南へ歩き、交差点を右折し50メートルほど進むと向かって左手に 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』に向かう梯子(階段)が見えてくる。
1人で進むと樹海で迷う事も考えられるので、できれば複数名で、万が一の事を想定し、懐中電灯なども持参した方がいいと思う。

一つ残念だったのは、この入り口から 『吉田胎内樹型(吉田胎内神社)』の往復では富士山世界遺産のブロンズ鋳物製の登録記念碑が無いという事。
きっと『中の茶屋』からの参拝であれば途中にあったんじゃないかなと思う。



【住所】〒403-0005 富士吉田市上吉田剣丸尾5590
【駐車場】なし

構成資産・構成要素一覧
22 吉田胎内樹型
平安時代の937年の噴火で流出した剣丸尾溶岩流の東端にできた洞穴です。明治時代の1892年に富士講信者によって発見されました。1本の横穴樹型・3本の井型状樹型・小さな円筒状横穴樹型から成っています。横穴樹型には樹木の木肌がはっきりと残り、底面には溶岩石筍を見ることもできます。富士山を訪れる富士講信者や御師たちによって守られてきました。内部は非公開ですが、年に一度だけ「吉田胎内祭」が開かれます。