壬生狼一家

Yahoo!ブログから引っ越ししてきた新参者です。宜しくお願いいたします。

<tonan前橋>J3落選のチーム あきらめぬ夢

tonan前橋J3落選のチーム あきらめぬ夢

THE PAGE 10月18日(金)16時43分配信
 来年から新設されるJ3に参加する12チームが、ほぼ出そろってきた。JFLから参戦を表明している町田ゼルビアツエーゲン金沢など10チームがほぼ確定。J1及びJ2の若手で構成されるU‐22選抜が、「J3特別参加枠」として加わることも内定している。

[表]J3候補だった19クラブ

 残る1枠を地域リーググルージャ盛岡(東北1部)、アスルクラロ沼津(東海1部)、レノファ山口(中国)で争う図式となるが、ここまでの審査の過程で、Jリーグ側が断腸の思いで非承認の結論を下したクラブがあることをご存知だろうか。
サッカー場が試合基準に届かなかった
 群馬県前橋市を本拠地とするtonan前橋(関東1部)は、ホームスタジアムとして申請した前橋総合運動公園陸上競技場・サッカー場の設備がJ3の試合開催基準に届かなかったとして、15日のJリーグ理事会で「要件未充足」と判断された。

 J3元年に出航する船には乗り遅れてしまったtonan前橋だが、ジュニアユースや小学生・幼稚園年代へのスクールなどを通じて、地元の子どもたちの育成に寄与してきた歴史に対する評価は高い。ピラミッドの頂点にtonan前橋を頂く形で、現在は10もの下部組織が活動。その中には女子チームや50歳以上のシニアチームも含まれ、スクールの登録人数は実に1200人を超えている。

 J3準備室のメンバーを務める、Jリーグ管理統括本部の岩本暢アシスタントチーフは言う。
 「育成だけでなく、行政との風通しもいい。地元と上手くやれているという点では、J3に申請した19クラブの中でピカイチ。Jリーグの理念である百年構想を体現する存在と言えるでしょう」
前橋商業OBが集まったtonan前橋
 JR両毛線前橋大島駅の北口を出て、遠方に赤城山を見ながら北へ歩くこと約10分。住宅と餃子工場に囲まれた一角に、tonan前橋にとっての「聖地」となる図南サッカーパークが姿を現す。

 1994年に土のグラウンドとして完成し、2007年には人工芝に張り替えられたナイター照明付きの立派なピッチ。ゴール裏には事務所やロッカールームのあるクラブハウスが隣接している。地元の名門校、前橋商業のOBたちが集まり、母校の校歌の歌詞に用いられた『図南』という言葉を冠した図南サッカークラブが結成されたのは1982年。もっとも、発音通りに「トナン」と呼ばれるまでには1年ほどの時間を要した。

 当時から選手、キャプテン、監督、代表を務め、いま現在は監督兼代表として東奔西走する菅原宏が苦笑いしながら振り返る。もちろん菅原も、今年五十路となった前橋商業OBだ。
 「何度も何度も『ズナン』と呼ばれましたよ。群馬県の3部リーグがからスタートしたけど、試合に人数が揃わなくて、いつも9人くらいで試合をして。仕事を終えた選手が後半から駆けつけてきたりしてね」
 県リーグをステップアップしていくにつれて、練習試合などで日本リーグ勢の胸を借りる機会も増えてきた。日産自動車(現横浜F・マリノス)や読売クラブ(現東京ヴェルディ)の練習場に出向いた菅原の目に飛び込んできた光景は、いま現在に至る原点となっている。
 
1999年には女子チームも創設
 「日産自動車木村和司さんや水沼貴史さんがプレーしている隣で、子どもたちが練習しているんです。目を輝かせながら。これをなぜ群馬で、前橋でできないかなと思ってね」

 ほどなくして前橋育英高など、他校のOBたちにも門戸を開いた。大学などでキャリアを積んだ選手たちが増えたこともあり、地元の子どもたちを集めたスクールを開校。やがてはトップチームの傘下にジュニアユースを創設しようと決意する。1994年のことだ。
 「地元に戻ってきたOBたちが、次の世代にいろいろな経験を伝えられる環境を作りたかった。それがスクールを始めた理由でしたけど、ジュニアユースを作るときには県協会の会長や強化委員長にえらく怒られてね。中体連をどうする気だって。でも、いずれはクラブが主体になると僕は確信していた。だから、グラウンドも作らなきゃとなったわけです」

 翌年にはニーズに応える形で女子チームも創設。前橋の地に種をまき続けていた1999年だった。設立50周年を迎えた群馬県サッカー協会の記念式典で、来賓として招かれたJリーグ川淵三郎チェアマン(当時)の講演を聞いた瞬間、菅原は自分の心が震えるのを感じたという。

 「そのときに初めて百年構想というものを聞いたんですけど、僕らはすでにそれを実践していると思わずにはいられませんでした。川淵さんのお話を聞いていて、やがてはJ3といったものができると感じたんですよね。だから、そのときにはいの一番に手を挙げようと(笑)」
長らくJFLすら存在しなかった群馬県
 群馬県には長くJクラブはおろか、JFLのチームも存在しなかった。しかし、2004年にはザスパ草津アルテ高崎JFLに昇格し、前者は勢いそのままに2005年にはJ2参入を果たした。
 後発の2チームに追い抜かれた形となったが、県リーグ1部を戦っていた菅原に焦りはかなかった。「むしろ2チームには感謝している」と豪快に笑う。

 「もちろんお金は大切です。でも、長期的な視野でいろいろなことをするには、地域にもっと根付き、地域からもっと愛されるクラブでないといけない。ザスパとアルテは、そのことをあらためて気づかせてくれたんです。お金をたくさんかけて、慌ててチームを強くすることが決してベストの道とは思いません」
 ザスパは2005年後半に金銭未払い問題が表面化し、オフの選手の大量退団を招いた。資金難に陥ったアルテは、2011年いっぱいで活動休止の憂き目を味わわされている。
 
プロ契約のいないtonan前橋
 そのころ、菅原は昼間に練習ができる環境を必死に整えていた。県リーグや関東リーグは原則デーゲームでの開催となるため、ナイター練習では選手のコンディション維持に問題が生じるからだ。

 いま現在もtonan前橋にプロ契約を結んでいる選手はいない。サテライトを含めた選手44人のうち7割ほどは運営会社の株式会社図南クラブ、自らが社長を務める建設会社の株式会社菅原ほかの社員であり、スクールのコーチで生計を立てている。

 残る選手に対しては、菅原が前橋市内で仕事を確保。中には介護事業に従事し、夜勤明けで午前中の練習に駆けつける選手もいる。練習後に慌ただしく仕事場へ向かう選手も然り。それでも、練習する光景は大好きなサッカーに打ち込める現状への喜びに満ちている。

 2011年までザスパに在籍し、今年からtonan前橋の最終ラインを束ねる田中淳は笑う。
 「言葉は悪いけど、サッカー馬鹿が集まっているクラブ。サッカーが大好きでしょうがなかった昔の自分を思い出させてくれたことは、今後の人生でプラスになりますよね」
 トップチームの今年の活動資金は約1300万円。チームスポンサーはつけていない。収入はスクールの講習料に加えて、実はサッカーを通して菅原が作り上げたスキームがある。

 U‐18やU‐15のアディダスカップなど、菅原は数多くの育成年代の大会を前橋市に誘致。県外から訪れるチームが宿泊するホテルや旅館、昼食のお弁当が注文される食品会社などを協賛企業として募集し、売り上げの一部がtonan前橋への寄付となる流れだ。
黄金世代生まれのキャプテンの存在
 まさに人と街をどんどん巻き込んでいく菅原のパワーと情熱。誰よりもそれを感じ、魅せられたのがキャプテンのMF氏家英行となるだろう。

 日本サッカー界の黄金世代と呼ばれる1979年に生まれた。今年で34歳。フィリップ・トルシエ監督に率いられたU‐20日本代表の一員として、1999年のワールドユース選手権準優勝を経験し、スペインとの決勝戦では先発も果たしている。

 大宮アルディージャからザスパに移った2005年。シーズン途中に発覚した金銭未払い問題の余波を受ける形で戦力外を通告され、行き場を失いかけていたときに、知人を介して菅原と出会った。
 菅原はストレートに思いの丈を伝えてきた。
 「いずれは指導者になりたいんだろう。だったら、ここで自分の城をつくれ」
 選択肢のひとつだったブンデスリーガ3部のチームは、GMが更迭されたことで契約内定がご破算になっていた。当時27歳だった氏家は、ほどなくして決意を固めている。

 「菅原さんからは、地元の子どもたちの未来に対する熱い思いがひしひしと伝わってきた。僕のようにプロだった選手がプレーしながら子どもたちを教えれば、さらに大きな夢を持ってくれるんじゃないか。こういう地域クラブがJリーグに上がれば、自分の人生そのものも強くなるんじゃないかと思って」
 
マチュア選手に引退はない
 tonan前橋でプレーするまで、JFLの下に地域リーグや県リーグがあることを知らなかった。サッカーができる環境が当たり前と思っていたころは見えなかったものに、気づかされた思いがした。ここまでの歴史と土台とを作り上げてきた菅原の背中が、とてつもなく大きく見えた。

 ピッチの上ではボランチとして攻守の舵を取り、キャプテンとして若手を引っ張り、コーチとして監督の菅原を支え、将来を見すえて指導者ライセンス取得に励み、県内やときには埼玉県内で子どもたちを教える日々で、氏家は前橋の地に骨を埋め、いずれは菅原からバトンを受け継ぐ覚悟を固めている。
 「どこかで絶対に(菅原さんと)世代交代をしなきゃいけないし、そのためには自分がもっと勉強して、いままでの経験を伝えられるようにならないと。菅原さんがいままでやってきたことに対して、恩返しがしたい。あの人がいて自分は変わることができたし、新たな夢と目標もできたので」

 ともにワールドユースを戦った遠藤保仁小野伸二稲本潤一小笠原満男らとはまったく異なるサッカー人生を、氏家はこう表現する。
 「アマチュア選手に引退はないと思っているので。できる限りやりたいですね」
Jリーガーを育てるJ3クラブでいい
 JリーグからNGを出された前橋総合運動公園陸上競技場・サッカー場には、ロッカールームや審判団の控室、監督会見室や記者室などが備わっていなかった。

 Jリーグの開催実績がある前橋市内の敷島公園サッカー・ラグビー場で申請すれば、承認された可能性は極めて高い。しかし、菅原は最後まで前橋総合運動公園にこだわった。
 「敷島は群馬県の持ち物ですから。僕はあくまでも前橋市からJ3に行きたいんです」

 菅原の情熱が前橋市をはじめとする行政を突き動かし、スタジアム要件を整備することができれば。チーム数を順次拡大していくJ3へ、早ければ2015年から仲間入りを果たすことができる。tonan前橋にはそれだけの高い評価が、すでにJリーグ内で与えられている。

 「カッコいいことを言っていると思われるかもしれないけど、地域に根差し、地域から愛されながらサッカーができるのであれば、僕個人としてはJFLでも関東リーグでもよかった。でも、Jという言葉に対して地域の子どもたちが夢を持つのであれば、ならば羽を広げよう、上を目指そうと」

 目標をかなえたとしても、菅原は背伸びをするつもりはない。大風呂敷を広げるつもりもない。tonan前橋が貫くスタンスは、育成に重点を置き、ジュニアユースを創設した1994年から一貫して変わらない。

 「Jリーガーを育てるJ3クラブでいいと僕は思っている。ウチからJ2、J1、そして世界へ飛び立ってくれる選手をね。その道筋としてのJ3でいいんじゃないですか。僕がいなくなっても、僕より知恵や情熱のある誰かが絶対に継続してくれる。それが世の中というものですよ。30年後くらいに天国から前橋の街を見て、『おお、tonan、頑張っているな』と思いたいですね(笑)」
たまたま今年、J3と交わらなかっただけ
 Jリーグが発足する前から百年構想を謳ってきたtonan前橋にとって、今回届いた「要件未充足」はいわば織り込み済みだったと言っていい。31年前からいま現在、そして未来へと真っすぐに伸びていくtonan前橋のベクトルが、たまたま今年はJ3と交わらなかった、と。

 「今年ダメだったからといって、すべてが終わるわけじゃないからね」
 菅原は眼鏡の奥で、切れ長の目をさらに細長くして笑った。


(文責・藤江直人/論スポ、アスリートジャーナル)