漢の富士登山道~珍道中~ ≪第31回≫
ちょうど一年前のことになるが初めて両親を連れて富士山登山に出かけた。両親にとっては初めての富士山登山で山登るのも殆ど初めてといった全くの山に関しては初心者であった。
5月、6月の母の日、父の日で私は富士山登山への招待と登山靴を贈った。
父はタバコを普段吸う量の半分に減らし、母は登山靴を履きながら犬の散歩に出かけるなどして富士山登山を楽しみにしていた。
富士山登山前の週末には細々した山道具の買出しに出かけ、万全の体制で富士登山当日を迎えた。
万が一に備え、二人ともに何かあっては一人で対応出来ないので兄にも同行を依頼した。
天気は良好、準備は万端。早朝自宅を出発し渋滞はあったものの12時過ぎにはスバルライン五合目の駐車場に到着した。着替えを整え、食事を取り、少し高度に慣らすためにのんびりしたあと河口湖口五合目を出発した。
14時を過ぎていた。五合目から、六合目にかけてはハイキングといった道が続く。毎年六合目までは殆ど休憩をとった事がない。
しかし今年は違っていた。母親は何の心配もない足取りで登坂している。その後ろを歩く父親は息使いからして様子がおかしい。まだ出発して1キロほどしか進んでいないにも拘らず休憩を求める。
『これくらいじゃまだ休憩いらないでしょ?』
と振り返ると不安げな顔をした父がそこにはいた。休憩を取る事にした。
通常の登山の三倍ほど休憩を多く取りながらゆっくりと、ゆっくりと登山道を進む。父の息使いはどう見てもおかしい。昨日のから富士山登山に不安を抱えていたようだが、気持ち面で完全に萎縮している。
母によると数日前父は何故か会社からロープを持ってきたそうだ。何か有ったらと持ってきたようだ。
力み過ぎていた父は六合目を越え、七合目に向っていく途中バランスを崩して転びそうになりだした。それでも何とか七号目に到着しトモエ館前で休憩を取っていた。標準的な富士山登山のペースであれば16時過ぎにはこの場所にいただろう。今の時刻は18時であった。日は暮れてはいないが西の空に日は傾いていた。
父の疲労は以上で座っていてもバランスを崩して倒れるほどになっていた。4人はしばらくその場で休んでいたが父の状態が良くならない。
日はもうじき暮れてしまう。判断が求められた。七合目でこの状態ではこれ以上の登山は不可能なのだ。父はまだ登ると言う。私はしばらく考え、母と兄貴を巻き込まないようにしなければいけない。二人とも富士山登山は初めてで楽しみにしていた。
決断した。私はここから父と一緒に下山する。母は兄に任せてこのまま登山を続けてもらう。兄は父親の様子を見て二人で下山させることに躊躇していた。
『お前一人で大丈夫か』
『まあどってことないでしょ♪』
兄たちは上を目指すことになった。間もなく日が暮れ、富士山登山初心者の兄にはこの先の道程に対しての不安があった。今後どのように変わってくるのか分からない登山道。無事山小屋に到着できるかすら分からない。
この先の登山道に対して事細かに説明と、指示を与える。一応安心してくえれたようだ。
すでに18時半を回っている。兄たちと私たちは別れ逆の方向へそれぞれ歩き出した。
『兄貴っ、親父下ろしたらすぐに追いかけるから。また後でなっ。』
『じゃあ行くか』少し歩き始めるとバランスを崩して転びそうになる。転ぶ前に後ろから手を差し伸べる。どうやら腰がいかれてしまった
ようだ。階段も全く下りれない、やばいこのままだとやばい。ちょこっと歩いては休憩。しかし休憩しても腰は全く回復しない。
日が暮れだす。何とかして五合目まで下山させないといけない。自分のザックと父のザックを両肩にそれぞれかけた。結構これだけできつい。ゆっくり登ってきたので自分の体力が全く衰えていなかったのが唯一の救いであった。
父の後方より、私の腕を両脇から差し入れ上へ持ち上げる。半分後ろから担ぎ上げるような格好だ。
『はい右足前出して、左足だして・・・』両肩にかかる重みと父を持ち上げる力は非常にきつい。父のか私のか分からない汗で滑る。手を放そうものなら父は倒れてしまう。途中で休憩し、背中を壁にもたれかけさせてもその姿勢を維持できない。まるで赤ちゃんのようにどちらかに倒れてします。休憩するときも父を支えながら休憩だ。
日はすっかり落ち、だいぶ冷えてきた。休憩をとるとそれまで溢れ出ていた汗が急激に体温を奪っていく。もたもたしていると私の体力も限界に達してしまう。
休憩を終えるとまた父の後方より、私の腕を両脇から差し入れ上へ持ち上げる。まるで操り人形のように。
これだけ苦しい状況の中、ふと頭に若い頃の父の姿が浮かんでくる。
あの頃父はそれは厳しい人だった。小さな頃から私は父を怖がっていた。かなり鉄拳制裁を受けた。小学に上がると父は少年野球の監督をしていた。いつもサングラスをかけており、見るのも怖いくらいであった。文字通りの鬼監督であった。父の野球の技術も相当なものであった。あの頃のエネルギッシュな父が今こうして私に支えられて下山している。私の支えがなければ歩くことすら出来ない。
今まで父がここまで弱く、小さくなってしまっていたことに気がつかなかった。
私の中の父は常に強い父であった。
父を無事下山させ、二人でお疲れ様の乾杯を『富士山ビール』でするまでは何があっても耐え抜いてやるという強い気持ちが怒りのように湧き上がってきた。
体力は著しく消耗し限界に近い状態に達していたころ前方に明かりが目に入ってきた。
富士山安全指導センターだ。父を運びいれ、今までの状況を細かく説明した。早速どこかに連絡をしてくれている。父は差し出された椅子にも座っていることが出来ない。ここでも支えながら指示を待つ。15分ほどすると外でエンジン音が聞こえてきた。
『どうぞこちらへ』
言われる方に進むと白黒のスズキジムニー【改】が横付けされていた。タイヤは大きく、マフラーもサスペンションも、ショックアブゾーバーも何もかも純正ではない。まさに≪富士山仕様 スズキ ジムニー≫であった。
私たちはそのジムニーで五合目まで届けてもらった。当然あの激しい登山道を下って行ったのであった。
このスズキ ジムニーのお陰で私たちはお疲れ様の『富士山ビール』に辿り着くことが出来た・・・。
P.S. その後仮眠を取り、兄と母とは八合目で合流したのであった。
5月、6月の母の日、父の日で私は富士山登山への招待と登山靴を贈った。
父はタバコを普段吸う量の半分に減らし、母は登山靴を履きながら犬の散歩に出かけるなどして富士山登山を楽しみにしていた。
富士山登山前の週末には細々した山道具の買出しに出かけ、万全の体制で富士登山当日を迎えた。
万が一に備え、二人ともに何かあっては一人で対応出来ないので兄にも同行を依頼した。
天気は良好、準備は万端。早朝自宅を出発し渋滞はあったものの12時過ぎにはスバルライン五合目の駐車場に到着した。着替えを整え、食事を取り、少し高度に慣らすためにのんびりしたあと河口湖口五合目を出発した。
14時を過ぎていた。五合目から、六合目にかけてはハイキングといった道が続く。毎年六合目までは殆ど休憩をとった事がない。
しかし今年は違っていた。母親は何の心配もない足取りで登坂している。その後ろを歩く父親は息使いからして様子がおかしい。まだ出発して1キロほどしか進んでいないにも拘らず休憩を求める。
『これくらいじゃまだ休憩いらないでしょ?』
と振り返ると不安げな顔をした父がそこにはいた。休憩を取る事にした。
通常の登山の三倍ほど休憩を多く取りながらゆっくりと、ゆっくりと登山道を進む。父の息使いはどう見てもおかしい。昨日のから富士山登山に不安を抱えていたようだが、気持ち面で完全に萎縮している。
母によると数日前父は何故か会社からロープを持ってきたそうだ。何か有ったらと持ってきたようだ。
力み過ぎていた父は六合目を越え、七合目に向っていく途中バランスを崩して転びそうになりだした。それでも何とか七号目に到着しトモエ館前で休憩を取っていた。標準的な富士山登山のペースであれば16時過ぎにはこの場所にいただろう。今の時刻は18時であった。日は暮れてはいないが西の空に日は傾いていた。
父の疲労は以上で座っていてもバランスを崩して倒れるほどになっていた。4人はしばらくその場で休んでいたが父の状態が良くならない。
日はもうじき暮れてしまう。判断が求められた。七合目でこの状態ではこれ以上の登山は不可能なのだ。父はまだ登ると言う。私はしばらく考え、母と兄貴を巻き込まないようにしなければいけない。二人とも富士山登山は初めてで楽しみにしていた。
決断した。私はここから父と一緒に下山する。母は兄に任せてこのまま登山を続けてもらう。兄は父親の様子を見て二人で下山させることに躊躇していた。
『お前一人で大丈夫か』
『まあどってことないでしょ♪』
兄たちは上を目指すことになった。間もなく日が暮れ、富士山登山初心者の兄にはこの先の道程に対しての不安があった。今後どのように変わってくるのか分からない登山道。無事山小屋に到着できるかすら分からない。
この先の登山道に対して事細かに説明と、指示を与える。一応安心してくえれたようだ。
すでに18時半を回っている。兄たちと私たちは別れ逆の方向へそれぞれ歩き出した。
『兄貴っ、親父下ろしたらすぐに追いかけるから。また後でなっ。』
『じゃあ行くか』少し歩き始めるとバランスを崩して転びそうになる。転ぶ前に後ろから手を差し伸べる。どうやら腰がいかれてしまった
ようだ。階段も全く下りれない、やばいこのままだとやばい。ちょこっと歩いては休憩。しかし休憩しても腰は全く回復しない。
日が暮れだす。何とかして五合目まで下山させないといけない。自分のザックと父のザックを両肩にそれぞれかけた。結構これだけできつい。ゆっくり登ってきたので自分の体力が全く衰えていなかったのが唯一の救いであった。
父の後方より、私の腕を両脇から差し入れ上へ持ち上げる。半分後ろから担ぎ上げるような格好だ。
『はい右足前出して、左足だして・・・』両肩にかかる重みと父を持ち上げる力は非常にきつい。父のか私のか分からない汗で滑る。手を放そうものなら父は倒れてしまう。途中で休憩し、背中を壁にもたれかけさせてもその姿勢を維持できない。まるで赤ちゃんのようにどちらかに倒れてします。休憩するときも父を支えながら休憩だ。
日はすっかり落ち、だいぶ冷えてきた。休憩をとるとそれまで溢れ出ていた汗が急激に体温を奪っていく。もたもたしていると私の体力も限界に達してしまう。
休憩を終えるとまた父の後方より、私の腕を両脇から差し入れ上へ持ち上げる。まるで操り人形のように。
これだけ苦しい状況の中、ふと頭に若い頃の父の姿が浮かんでくる。
あの頃父はそれは厳しい人だった。小さな頃から私は父を怖がっていた。かなり鉄拳制裁を受けた。小学に上がると父は少年野球の監督をしていた。いつもサングラスをかけており、見るのも怖いくらいであった。文字通りの鬼監督であった。父の野球の技術も相当なものであった。あの頃のエネルギッシュな父が今こうして私に支えられて下山している。私の支えがなければ歩くことすら出来ない。
今まで父がここまで弱く、小さくなってしまっていたことに気がつかなかった。
私の中の父は常に強い父であった。
父を無事下山させ、二人でお疲れ様の乾杯を『富士山ビール』でするまでは何があっても耐え抜いてやるという強い気持ちが怒りのように湧き上がってきた。
体力は著しく消耗し限界に近い状態に達していたころ前方に明かりが目に入ってきた。
富士山安全指導センターだ。父を運びいれ、今までの状況を細かく説明した。早速どこかに連絡をしてくれている。父は差し出された椅子にも座っていることが出来ない。ここでも支えながら指示を待つ。15分ほどすると外でエンジン音が聞こえてきた。
『どうぞこちらへ』
言われる方に進むと白黒のスズキジムニー【改】が横付けされていた。タイヤは大きく、マフラーもサスペンションも、ショックアブゾーバーも何もかも純正ではない。まさに≪富士山仕様 スズキ ジムニー≫であった。
私たちはそのジムニーで五合目まで届けてもらった。当然あの激しい登山道を下って行ったのであった。
このスズキ ジムニーのお陰で私たちはお疲れ様の『富士山ビール』に辿り着くことが出来た・・・。
P.S. その後仮眠を取り、兄と母とは八合目で合流したのであった。